課題と吃音と僕と。

吃音大学生のひとりごと日記。

今更だけど知ろうとして

最近、恥ずかしながら、場面緘黙症のことを改めて知りたいと思い、色々調べていました。

注意!この日記は少し長めです。時間のある時にゆっくり読んでください。

 

吃音のアカウントを作って、様々な交流をする中で、耳には入ってくるキーワードでした。

 

でも何となく、吃音以外にある発達障害の一種としか思っておらず、その詳細などを知ろうとさえ思いませんでした。

 

でも知ろうと思ったのは、最近TLにちょくちょく流れてきていたツイートでした。

 

今までは、何となく読んで何となく流していたのですが、ちょうど通学中とあって、しっかり読んでいたんですよね。

 

それで、僕は場面緘黙症についてあまり知らないなと気づいて。

 

僕のフォローしている方にも場面緘黙症を患っている方がいますし、中には吃音と場面緘黙の両方を患っている方もいます。

そんな方にフォローをしていただくことも少なくありませんしね。

 

だからこそ、知っておかなければいけない気がしました。吃音という似たような(正確には全く違うといえるのかもしれません。)症状であるこれに、多少なりとも知識を取り入れておかなければならないなと。

 

確かに、

 

吃音への理解が広がってほしい。

 

そんな思いはもちろんありますが、欲を言えば発達障害といえるもの、もしくはそれに準ずるものすべてが、平等に社会に受け入れられるといいなと思っています。

 

そう考えるならば、まず自分からなのではないか。

 

まぁそう考えるのは至極当然なことですよね。笑

 

と、いう訳でネットでの知識になってしまいますが、調べてみました。

 

まず、率直に感じたのは、吃音とは似ている点がいくつかあるということです。

 

僕の意見でしかないですが、どちらもシチュエーションに左右されるものですね。

 

吃音でも場面緘黙でも、話しづらい相手や環境では、その効果を発揮してしまいます。

 

そのどうしようもできない不安感が、両者にとても良く似ている点だと思いました。

 

でも、だからと言って似た者同士なんて言うことは言えないわけであって。

 

吃音は話したいのに言葉が出ないむずがゆさ、場面緘黙は話すことができない辛さ。

 

似たように思えますが、微妙にちがうのかな?と。

 

吃音は、慣れ不慣れ関係なく出るものだと思っています。

個人的には、環境より出せない音が多く影響しているのかなと。

 

対して場面緘黙は、慣れ不慣れに非常に依存しているという印象でした。

言葉の種類というより、環境や人間関係を重視するのかなと。

 

今までの僕は、この2つは結構似ているんじゃないか?という考えを持っていました。

 

でもそんなことはなかったんですね。どちらも、相手とは違うところで苦労していますし、同じところでも苦労している。

そんなように思えました。

 

僕は、言語聴覚士でもなければその道を学ぶ学生でもありません。

 

だから、月並みな知識しか持ち合わせることができませんが、目の前にこの症状がみられる人が現れたとき、しかるべき行動がとれるように、知っておこうと思います。

 

社会に知ってもらう前に、まず自分から。

 

そう思うことにしましょう。

 

もし、場面緘黙症をお持ちの方でこのブログの訂正や補足などありましたら、コメントやDMでいろいろご教授くださるとうれしいです。

 

それでは。